2005.10.31

書評「スカイ・クロラ」(森博嗣、中央公論新社)

 
 繰り返し、僕たちは、生きることになるだろう。
 そして、また…、
 戦おう。
 人間のように。
 永遠に、戦おう。
 殺し合おう。
 いつまでも。
 理由もなく、
 愛情もなく、
 孤独もなく。
 何のためでもなく、
 何も望まずに……。

(p303)

 理由なき戦いを生きる。主人公、カンナミ・ユーヒチは戦うことで、生きることを感じて来た。それは国家が命じるからでもなく、人を殺したいからでもない。常に死に向かう会うことで、現在の生を感じたい、あるいはそうすることでしか生きられなかったからなのだ。この発想を持っている主人公は、世の中に違和感を抱いて来た。

 理屈で戦闘機に乗れれば、まだ大人として生きられたのかもしれない。たとえば、愛国心や郷土愛、家族を守る・・・・そうした理由は主人公にはない。「周りのみんなは理由を沢山用意する。この世は、うんざりするほど理由でいっぱいだ」(p301)とあるように、主人公は、ただ自分が生きるためだけに、戦闘機に乗ることを訴えている。

 それは主人公が「キルドレ」だからではないかと、思っているからだ。この物語では民間企業が戦闘を行っているように描かれているが、「キルドレ」とは、その企業の商品名だった。「遺伝子御剤の開発の途中で貴方たちが突然生まれて、その新薬につけられるはずだった名称が、貴方たちを表すようになった」(p272)。つまり、遺伝子操作の結果、生まれた新種の人間なのだ。それは永遠に歳をとらずに、生き続ける生命体。しかしほとんどの「キルドレ」が周囲に順応できず、精神崩壊を起す。しかしその中で生き残った「キルドレ」たちがおり、それが「パーフェクト・サバイバ」であり、主人公たちを指している。

 そうした設定は、荒唐無稽ではある。しかし、そうした違和感を抱く理由となるカナリア的な存在として「パーフェクト・サバイバ」を位置づけると、この物語の現代的な意味が出てくるのだろう。それは、見た目ではほとんど変らないのだが、ある感受性を持っている。それは周囲になじめない「生きづらさ」を抱えた人たちなのだ。そして、生き残れずに自殺してしまった人たちも多いが、順応の成功しつつも、違和感を抱き続けているのは、まさに、私がこれまで主張してきた「生きづらさ系」と似ているような気がした。

 怒っているようにも、喜んでいるようにも、見えない。感情がない、感情のスイッチを切っている、そんな様子だ。やっぱり、同じ種族。僕たちは、そういう人間、そういう子供なのだ。でも、仲間に出会えて嬉しい、といった感情でさえ、僕たちにはないのだから、つまり無意味。
 理屈がさきにあって、その理屈で感情がある振りをする。
 ずっとそうしてきた、子供のときから。

 (p123)

 こうした振る舞いは、まさに「生きづらさ系」の人たちの行動様式そのものだ。そうした意味では、理由なき「殺人」を行う主人公は、まさに、理由なき犯行を繰り返す少年たちの姿に重なる。結局、主人公は、「キルドレ」たる上司を殺す。表面的に考えれば、生き続ける意味を失った上司に「死」を与えた。それは、人生の物語を終わらせた意味はあった。

 しかし、ある意味では、なんの解決をもしていないし、自分の生死を保留してしまった。「キルドレ」同士の共感が生み出した「殺人」とも考えられる。そう考えると、主人公も最終的に死を思考すると思われるのだが、結局は、理由なく生きてしまう。

 小説の最初のほうでは、戦闘機の技術的な記述が多く、そうした描き方に引きづられてしまうきらいがあるだろう。読み進めるうちに、このあたりで飽きてしまう読者もいるのではないか。しかし、作者が描きたかった設定は後半部分になって、急に現れてくる。物語の設定が戦後50年を意識してるのだが、理由なき人生そのものが漂っていることを、「キルドレ」という「生きづらさ系」の人を描くことで成功させているだろう。

 この「キルドレ」という存在は、非常に興味深い。私もある意味、こうした感受性がないわけではない。大人にもなきりれない、子供にもなりきれない。何者でもない存在という感覚は私も抱いたことがあるし、今でもそう思うことがある。位置づけの曖昧さ、居場所のなさ、を描いたこの作品は私の心にも響いた。

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2005.10.29

新刊案内

『ケータイ・ネットを駆使する子ども、不安な大人』

  (渋井哲也著)

   定価:本体1600円+税


 


 このたび、小社では標記の書を刊行することになりました。このところ、ネットを利用した犯罪や、少年事件が増えているのは確かです。特に子どもが絡んでしまう犯罪が起こった場合、ネットにその責任を求める論調が多くなっていることは確かです。しかし、ネットを取り上げてしまうことが、全ての解決にはなりません。

「インターネットの『有害サイト』を規制しよう!」、あるいは「『危険なサイト』を子どもたちに見せないようにしよう!」というムードが漂っています。それは、出会い系サイト関連事件やネット心中、ネット犯罪など報道されるたびに、「ネットがあるからいけない。子どもたちを守ろう」と漠然と考えてしまう大人たちが多いからでしょう。

 果たしてそうでしょうか。インターネットが根本的な原因であれば、これだけ普及しているのだから、もっと事件が起きてもいいはずです。たしかに、インターネットは犯罪やトラブルの「入り口」にはなっています。しかし、そうした「入り口」に接したとしても、その反応には個人差があるのです。その個人差はどこからくるのか。その主因たるネット・コミュニケーションの特性について考察したのが本書の試みなのです。

 2004年6月、長崎県佐世保市内の小学校で同級生殺害事件が起きました。その際も、「主犯」が「インターネット」という見方は強く、家裁の判決要旨でも、そうした考えは見てとれます。しかし、インターネットはあくまでも道具です。そのコミュニケーションの中になにがあったのか。しかも加害者と被害者は同級生であったことから、日常的な会話もあったはず。彼女たちの日常とインターネットとの関係はどうだったのでしょうか。

 その後、政府や行政が考えた対策は、「有害サイト対策」や「匿名の他者とのトラブル」がほとんどでした。佐世保事件は友人間のトラブルでした。友人間で起きたネット・トラブルは、そうした政策には反映されていません。そのことを考えなければ、事件が教える教訓は見えてきません。

 本書では、単なる「有害サイト規制」や「匿名の他者とのトラブル」を想定するだけでは現実に合わないとしています。真に子どもたちの現状を見つめて、インターネットの利用教育を進めて行くことを提案しています。これからのインターネット時代のために、家庭で、あるいは学校で、地域でのネット利用教育を進めていくべきではないかと考えています。

 どうぞ本書についても皆様のご好評を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

渋井哲也

長崎出版株式会社 〒101-0054 東京都千代田区猿楽町2-7-17

Tel.03-5283-3752 Fax.03-5281-2401

担当・渡辺弘一郎

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2005.06.13

書評「魂の声 リストカットの少女たち 私も『リスカ』だった」(小国綾子、講談社)

 毎日新聞記者の小国綾子さんが執筆した本。彼女の名前は以前から目にしていた。家族問題や少年問題でかなり積極的に執筆していたとの印象を持っている。
 彼女が「リストカット」について取材・執筆していることを知ったとき、私は、近年のマスコミ報道でありがちな、いわば流行のようなものとしての後追い取材をイメージしていた。また同時に、彼女が執筆したら、どのような描き方になるのかという単純な関心もあった。

 しかし、私の期待は早々と裏切られた。よい意味で。
 まずは、流行としての取材ではないことがこの本には描かれている。彼女はこの本で、かつて自身もリストカットしたことがあることを告白している。著者も当事者のひとりという意味では、ロブ@大月氏の「リストカットシンドローム」(ワニブックス)や、リストカットだけを扱ったわけではないが水谷修氏の「夜回り先生」(サンクチュアリ出版)と基本的スタンスは同じだ。
 ただ、彼女は取材することに最初から積極的だったわけではない。水谷さんとの交流の中で、お互い元自傷者であったことが、背中を押した。
 しかし、彼女は母親でもある。自傷をテーマにした場合、ロブ氏も水谷氏も当事者からのメールや電話が多くなる。私も、自傷当事者ではないが、「生きづらさ」というテーマのなかのひとつの現象として取材をしている。だから、そうしたメールや電話が多くなる事は知っている。
 メールや電話が多くなることとプライベートな時間できちんと子育てをしたい。そうした彼女の思いは、当初は対立的であったし、そのプロセスの中でも悩みながらの取材だった。私はひとり暮らしなので、取材当事者から夜中の電話が来ても、メールがきても、そのときの忙しさなどによって判断し、電話にでるか・でないか、メールを返信するか・しないかを選択できる。しかし、彼女の場合、子どもがいる。電話が鳴るたびに、子どもを気にしなければならない。
 こうした取材プロセスをここまで赤裸々に明らかにしている関連書籍はこれまでに少なかった。その意味では、取材論としても、執筆のあり方としても興味深く読ませていただいた。そして、まだ会った事はないが、小国さんの人柄の一端が見えて、読書をしていて、久々に楽しかった(と言っては失礼か)。
 おそらく、自傷をテーマにしているジャーナリスト、ライターなどは同じような経験をしてきたはずだ。同業者としても参考になる。また、自傷をしている人との接し方や距離感は、ジャーナリストやライターでなくても、家族や友人としても参考になるであろう。
 そして、私が最も気に入っているのは、自傷は必ずしも家族関係のせいではない、としているところだ。しかも、統計的な、あるいは経験的な結論としてではなく、主観的な、感情的なものとして、受け入れたくないとしているところだろう。私も取材をしていて同じように感じている。もちろん、私は彼女と違って当事者ではないので、私の感覚は説得力はない。しかし、当事者の彼女がそうした思いを抱いていると、私の感覚も間違っているのではないのかもしれないと、思わせてくれた。

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2005.02.22

リストカットシンドローム2

 知人のライター、ロブ@大月氏の新刊「リストカットシンドローム2』が発売されている。前作から4年がたっての続編だ(前作に収録されている人の、「その後」のインタビューも含まれている)。
 前作のときには、リストカットを扱った書籍はいくつか出ていた。しかし、テレビや雑誌が関心を持ったという意味では、前作の功績は大きかった。今回の作品も同じような登場人物がインタビューに答えている。
 私がロブ氏と出会ったのは、彼がライター・デビューをするちょっと前だった。私自身、リストカットなるものをよく知らない時期だった。インターネットと生きづらさとの関係について興味を持ち、大学院の修士課程で研究しているころだった。
 どうして、そんなことに興味を持つのか。なぜリストカッターを取材をするのか。私はよく分かっていなかった。そのうち、ロブ氏とオフ会や勉強会で出会うことがあり、私自身、自傷行為について関心を寄せるようになった。私の取材する中でも、リストカッターが多くなってきていたこともあっただろう。
 「リストカットは自殺の手段ではない」
 前作の最も大きな功績はそのことを知らせることにあった。今回の作品もそのことは貫かれているが、リストカットや大量服薬を繰り返すことで、望まない死を迎える可能性についても触れている。
 このことは、彼自身の取材等の経験が増えたことや、リストカッターの中に大量服薬を志向する人が増えたこと、精神医療が薬物療法中心で多種多剤を基本としていること、大量服薬という手段が広まったことなどが絡まっているのだろうと思う。私自身の取材等の経験でも、そうした「望まない死」を迎えた人はいた。

 しかし、そうした「生きづらさ」から抜け出せた人もいる。「望まない死」を迎えた人たちとの差はあるのだろうか。

 「自傷行為によって生きている実感を得るのは、一時しのぎでしかない。そこから抜け出すには、試行錯誤が不可欠だ。勉強に、恋愛に、仕事に正面からぶつかり、失敗したら立ち上がる。それを繰り返すことで僕たちは自分の能力を知り、社会と向き合えるようになる」(p14)

 差が決定的にあるわけではない。その意味ではマニュアルはない。そして、治療を通じて「治る」ことのみならず、「変化」することの大切さを述べている。

 また精神科医名越康文氏との対談では、前作では触れられなかった、呼吸との関係を指摘する。

 ただし、前作よりも症例が重いように感じたのだが、リストカッターが増加、多様化、重症化している現実について分析をしてほしかった。

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2005.02.14

寄せられた感想など

 (てっちゃん@hatenaと同じ文です)


 拙著『男女七人ネット心中 マリアはなぜ死んだのか』(新紀元社)が発売され、1ヶ月が近づきつつあります。いくつかの感想がメールで寄せられたり、blogで書かれたりしています。あるいは、電話も来ました。

 これまでの感想を読むと、まず、一つの目的は叶ったのではないかと思えます。最大の目的な、マリア主導説(呼びかけ人のマリアが、意図的に他の6人を集め、共感的なメッセージを出して、ネット心中の世界に引きずり寄せたなど)に反証することです。本の中にある「8人目」のメールのやりとりを提示できたことで、マリアもある意味で、巻き込まれた側だったことが分かります。また、人数が関係なかったことを示すこともできたように思います。それに対する感想がいくつかありました。

 ただ、考えていなかった反応は、この本はマリアを題材にした「私の物語」である、との解釈でした。この本は、マリアを含む七人が亡くなってすぐに書き始めたものです。たしかに、どこまで「私」のことを書くのか、どこまで「マリア」のことを書くのかは、迷いながら書きました。
 その中で、十分に「私」を出し切っていないのではないか、との指摘もあります。それは、出し切ってしまうと、涙が出てきそうになり、筆が進まなかったからです。筆が進む程度といったら語弊がありますが、そのときのモードで、書くことと、自分を出すことのバランスによって書かれた面もあります。ここまで「私」との距離を考えながら書いたものは、私にはかつてありませんでした。
 そうした「出し切れていない」との見方とは逆に、マリアを通じて、私を物語っているとの意見もあります。つまり、マリアの発言は、私の代弁なのだ、という見方です。たしかに、そうした見方もあるでしょう。だからこそ、私はマリアに興味があったわけですし。一方、「マリアのようになりたい」が、なりきれていない自分へのコンプレックスも抱いてきたと思っています、その意味で、憧れの存在でもありました。

 本はたしかに、私の思いを込めたものです。
 しかし、消費される段階では、読者がどんな思いを持っても自由です。むしろ、解釈は千差万別になることがよいのだと思っています。

 他の解釈、感想を含め、読んだ方は感想を聞かせてください。

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2003.12.02

「送り火」を読んで

 直木賞作家の重松清さんの『送り火』(文藝春秋、2003)を読んでいます。この作品は、ある私鉄沿線の、郊外で起きてるさまざまな人たちの葛藤を描いている、短編がいくつかある作品集です。フリーライターもしている重松さん。そのフリーライターの葛藤も取り上げています。

 『ハードラック・ウーマン』は、あるライターが企画で取り上げた「やらせ」に近い作品が一人歩きをしていく。ある駅にいるおばさんに祈ると願うが叶うという都市伝説めいたもの。しかし、実はそのおばさんは「尻押しおばさん」で自殺を誘発させるおばさんだった。そして、おばさんに祈った男が自殺してしまう…。なんとも後味の悪さを残したが、こういうこと=雑誌記事が一人歩きをしてしまうことはあるのだろうな、と。

 泣けてしまうのは『かげぜん』。亡き子どもを巡る、ある夫婦の葛藤だ。昨今は情報化社会のために、亡き子どもでも、ダイレクトメールの名簿から削除されず、子ども宛のダイレクトメールがくる。それに、妻は返事をして、せめて名簿からでもなくならないようにする。それは、妊娠していて、その子ばかり気にし過ぎないように、亡くなった子どものことを忘れないように、せめてできることをしていた。ランドセルを購入し、公園で子どもに背負ってもらって、傷を付け、そのランドセルのミニチュアをつくる。

 私が、重松さんの単行本を読んだのは初めてです。『ビタミンF』で直木賞を受賞して、重松さんの名前を知りました。フリーライター出身の小説家で、存在としては近いものがあります。近親憎悪からでしょうか、読むことを遠ざけていたように思います。仕事がらみで読みはじめると、この『送り火』は、心理的になぜかシンクロしてしまいました。

 ほかにも、飛び込み自殺を阻止するのがうまい駅員を描いた『そーよろ』、子育てを優先するために郊外に住む事を選択した夫婦の生活をテーマにした『漂流記』、昔の売れっ子音楽ライターが、かつての自分の文章のファンに出会う『シド・ヴィジャスから遠く離れて』…などの短編作品があります。

 『漂流記』は、都市から郊外に生活の拠点を移すときの、ある「あきらめ」が見えかくれします。私も、長野県で新聞記者をしていたときに、似た感情がありました。もう東京的生活ができない。そして、批判的だった生活(作品の中では、マンション的な近隣の付き合い、わたしの場合は、善悪関係も興味も関係なく付き合わざるを得ない地方の生活)をしなければならないという「あきらめ」。最近引っ越した私ですが、新宿区から、23区内でありながらも、寂しげな風景な環境に移ったときの、「さびしさ」。それらの感情が、とくに仕事をやめて子育てに専念する妻側の心境に似ているのかもしれないと思えました。

 どれひとつとっても、現代的なテーマでありながら、気負いのない作品でした。これまで『読まず嫌い』とまでは言いませんが、なぜ読まなかったのか。そう思うと、もったいないかな。そして、実際の事件を扱った『隣人』(講談社、2001)も購入しました。重松さんの世界をもっと知りたくなりました。

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