2005.06.13

映画「カナリア」評

 オウム真理教の地下鉄サリン事件後の子どもたちをモチーフに、カルト教団の「その後」を描いた作品。母親が無差別テロの実行部隊となり、祖父母に引き取りを拒否された少年は、児童相談所を脱走する。そこで、父親から虐待されて育ち、援助交際を繰り返す少女と出会い、2人で、少年の妹がいる東京を目指す。

 旅の途中で、2人は葛藤する。少年はなかなかカルト教団の思想を抜け出せない。というか、抜け出さないことで、勝つと教団に自分を入れた母親を肯定したかったのか。そうした少年に、素直に疑問を抱く少女は、自らをぶつけていく。自殺を考えたこともあることを少女が告げると、少年は、
 「自殺をすると地獄に堕ちる」
 その言葉に、自殺をしようとまで追いつめられた気持ちを理解してくれないと感じた少女は、
 「自殺をすると地獄に堕ちて、人を殺すと天国か?!」
 と怒りを素直にぶつける。
 このやりとりは、結果として少年のこころを開いて行く。少女の素直さがそうさせていったのだろう。

 結局、祖父母の家にたどり着くが、近所の嫌がらせなのか、家には「親も子も同罪」「出て行け」「地獄に堕ちろ」「反省しろ」などの落書きがされ、引っ越しをしていた。
 この姿は、現実にも起きている。これは現実社会の「寛容さのなさ」を示す出来事だが、ある意味、地下鉄サリン事件で、非信者たちを「ポア」したオウム真理教と同様に、「受け入れがたい」相手を排除しようとする、社会のオウム的な姿勢を鏡の中に映し出したものとも言ってよいのではないか。
 路頭に迷う2人だが、そこで、元カルト信者たちに出会う。かつて、少年を指導していた人たちがいまは脱会信者となり、社会復帰を目指している姿を見て、少年の心は揺れ動く。祖父母の引っ越し先を突き止め、妹を探しに出かけるとき、かつての指導した男は、
 「自分とは何者なのかを自分できめなきゃいけない。しかし、それは辛いことだ」
 カルトという「物語」=共同幻想を失った男は、その物語の中の自分という位置づけを放棄し、自らが自らを位置づけるしかないことを自覚していた。信ずべき「神」、信頼できる未来や希望がなくても、自らの足で立ち、そして、自信を獲得しなければいけないことを少年に伝える。

 祖父母の引っ越し先に近づいたとき、食堂で母親が教祖らとともに集団自殺をしたことをテレビで知る。そのテレビを壊し、逃走。自殺を考えたが、少女に止められる。
 「あんたが死んだら、妹さんはどうなるねん!」
 そして、少女が妹を連れてくることを約束する。少女にとってそれは命をかけた闘いでもあった。祖父母の家に行くと、祖母が寝たきりとなっていることを目撃。少女が祖父の話を聞くと、
 「あんた、私の父親と同じや」
 と殺意を抱く。祖父は、集団自殺をした母親を都合よくコントロールしようと育てていただけにすぎなかった。母親は、最後の電話で
 「ごめんね。お父さんの魂を救えなかった」
 と話したという。そうした祖父の魂を救おうとして、入信したのだろう。祖父は、まるで実験道具のように、「あれは失敗だった。今度は朝子(妹)で成功させる」と言い放った。カルトを生み出す家庭は、それ以上にカルト的だということをここで見いだす。
 オウム真理教事件で、対岸の火事のように、オウム的なものを排除しようと努めた日本社会。しかし、日本社会そのものの中に、内なるオウム的なものが存在していることを暗に示しているのだろう。

 地下鉄サリン事件から10年。日本社会は変わったのか?子どもたちにとって、希望がある社会と成り得たのか。いや、何も変わっていないどころか、オウム真理教をスケープゴートにして、内なるオウム的なものを隠蔽したに過ぎなかったのではないか。この映画はそうした問題を提起しているように思えた。

 もっと反オウム的に描かれるのではないかと思っていたが、反オウムであると同様に、現実の「内なるオウム」への批判もあり、さらに、ハッピーエンドではなかったので、期待よりはよかった。

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2005.04.27

映画「誰も知らない」

 実際の「巣鴨子ども置き去り事件」をモチーフにし、主人公の少年・明(柳楽優弥)を中心にした物語。ノンフィクションをフィクションで穴埋めする手法は、映画ならでは。

 父親が家を出て、母子家庭となった一家5人。しかも、母親けい子(YOU)が男を作って、子どもだけで暮らす毎日。母親に「外に出ては行けない」と言われていた、長男をのぞく3人は、言いつけを基本的には守り通す。そのため、子どもたち4人は家の中で暮らす。

 母親は一度は戻るが、
 「どうして私は幸せになっちゃいけないの?」
 という命題を、息子に向ける。幸せになっていけないことはもちろんない。しかし、それは子どもたち4人が犠牲になることを意味していた。
 さらに、長男が
 「学校に行かせてよ!」
 と普通の生活を希望するが、
 「学校に行かなくても偉くなった人はいる」
 と答える。長男が
 「誰だよ?」
 と問いただすが、うまく答えられない。長男は「偉く」なりたいのではない。母親と兄弟姉妹と普通に暮らしたいのだ。ただ、それを十分に主張できないのは、母親が好きである反面、諦めにも似た気持ちがあったのだろう。

 長男・明と長女・京子(北浦愛)は母親が帰ってこないと思っているが、妹・ゆき(清水萌々子)や弟・(木村飛影)たちは母親が帰ってくると信じている。そのために、明とゆきは駅まで迎えに行く。しかし結局は無駄足になる。その途中、モノレールを見るのだが、それは明が見た、かつて空港で働いていた父親への思いだったのかもしれない。もしくは、ゆきに飛行機を見せたい思いなのだろうが、やはりそれは、父親の影を追ったものだろう。

 そして、この子どもたちと共感的な出会いをするのは、いじめられた女子中学生。影の存在が影の存在と出会うという発想は、『害虫』と似た発想がある。
 ただ、『害虫』では、その代は一時的ではあるが、癒しとなる。しかし、この映画では、ひとつの出会いを構成はするが、それは癒しとはならない。共感的にはなりながらも、つかず離れずの距離をとる。

 ゆきが部屋の中での事故で亡くなってしまう。どのように明は振る舞うのか。それがひとつのポイントではある。すると、警察などには届けることなく、バックに詰め込んで、飛行機が見える場所に埋める。
 「飛行機を見せてあげたい」
 それは明がせめて父親をイメージできる場所を選んだということなのだろうか。あるいは、その場所を選び、家族がバラバラにならないキーワードとしての「飛行機が見える場所」として象徴できる場所だったのだろうか(「家族がバラバラにならない」ことを欲するのは、途中にも描かれているが、かつて母親が家出をしたとき、警察か福祉事務所に届けたとき、「バラバラになって大変だった」と言っていたことによるのだろう)。

 結局、この映画では救いはない。ドキュメンタリータッチのフィクションでは、最後に救いの表現が見られる。しかし、この映画は、何の道標をも示さない。示すことが出来なかったのかもしれない。リアリティ志向の私としては、好きなラストシーンだ。しかし、ドキュメンタリータッチが過剰に思え、演技が自然すぎるのではないか、と考えてしまい、かえって「やらせ」感を持ってしまった。

 それに、カンヌ映画祭で、最優秀男優賞を史上最年少で受賞したのが主人公役の柳楽優弥。どうなんでしょうか。たしかに自然な表情はよかったが、受賞するほどのものだろうか?

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2005.03.24

パッチギ!

1968年の京都を舞台に、在日朝鮮人の女子高生、リ・キョンジャと日本人の男子高校生、松山康介の恋愛物語。当時は、今以上に、在日と日本人との隔たりがあった。歴史的にはあるだろうが、当事者の高校生にとってみれば、在日と日本人との壁は理由なき理不尽なもの。お互いが背負ってきたものを暴力で表現するしかなかったのかもしれない。

 そうした壁を突き崩すきっかけとなるのが恋愛だ。しかし、単純にはいかない。そこで、突き崩す道具となったのが、音楽だった。「イムジン河」は、南北に別れた朝鮮半島の統一を願う素朴な歌だが、主人公の康介はその歌に魅せられる。フォークギターを片手に練習し、その「イムジン河」がキョンジャとの壁をなくさせていく。

 康介はキョンジャを中心に在日の世界に入り込み、在日の友人を作る。しかし、音楽を共にやっていこうとしたチェドキが、日本の高校生に集団暴行を受けたあとに、事故で亡くなる。康介は葬儀に行くが、

 「生駒トンネル、誰が掘ったか知ってるか!」
 「国会議事堂の大理石、どっから持ってきて、誰が積み上げたか知ってるか!」
 と言われ、朝鮮人の強制労働の歴史を無知な若者のひとりだったことを自覚する。しかし、そうした無知な若者にできることといえば、そのチェドキの死の弔いに「イムジン河」を歌うことくらいだった。

 その「イムジン河」を歌う場所はラジオ局。公園でキョンジャとデュエットをしたときに、ラジオのデレクターにスカウトされた。しかし、当時、「イムジン河」は放送禁止歌。プロデューサーと喧嘩をしてまで、テレクターは歌わせた。

 歴史的な設定や途中のストーリーでのもどかしさなどは、興味深くみせてもらった。しかし、最後がほぼハッピーエンドになってしまうあたりが、在日と日本人との物語を、恋愛というファンタジーに閉じ込めてしまったように感じた。

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2005.01.24

「GO! GO! HEAVEN」

 テレビ東京系で「GO! GO! HEAVEN」が始まっている。
 http://www.tv-tokyo.co.jp/ggh/

 ビックコミックスピリッツで連載されている漫画で、そのテレビ化したものだ。集団自殺をしようと集まった少女4人が感電自殺をするライブ「自殺だよ!全員集合」を開催する。しかし、自殺には失敗。それをみた音楽プロデューサーが、自殺をする少女バンド「自決少女隊」として、デビューさせる。

 現実離れてしていて、エンターテイメントとしてみると、ばかばかしい感じです。
 ただ、リアルな集団自殺をしようとしていた人たちのことを取材してきた私からみれば、現実離れはしています。というのも、ネットを通じた集団自殺の場合、お互いがどんな理由で死のうとしているのかを知ろうとしない。自殺するためだけの人間関係をその集団内に求めている。集団自殺をすること自体がある意味でイベント的な要素もあるわけで、他にロックバンドというイベント的要素があるのなら、集団自殺はできません。それに、他の目的ができた場合、人間関係は崩壊します。

 そうはいっても、漫画にどれくらいリアリティを求めるのかというのもあります。漫画では、集団内が崩壊させないために、契約で縛るという仕掛けはしてはいますが。この漫画はほぼ連載と同時進行のような状態で、落としどころがどこにあるのかがまだまったく分かりません。この先、どうなることやら。

 そういえば、集団自殺を心霊のカテゴリで扱ったDVDもありましたよね。「集団自殺ネット」というものです。これもギャグでしかないのですが。


 ちょっとまじめなのが、「自殺サークル」ですかね。

 

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2004.12.12

「ハウルの動く城」から見えるもの

 宮崎駿作品「ハウルの動く城」を観てきました。
 その感想を述べたいと思います。
 まずは、私がmixiで書いたものを引用しましょう。

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 国家の権力側につく魔法使いサリマンと、その後継ぎを期待されたハウル。戦争を遂行のために魔法が必要な国家に住み、魔法使いは戦争のための道具と化している。魔法を使えば、空襲があっても、城は守られる(その代わりに爆弾は街に落ちる)。国家にとっては都合が良くても、住民たちにとっては悲惨な戦争という構図。まるで、ナチスドイツが占星術や超能力を戦争で勝つために研究していたのと似ている。ただ、違うのは、実質的な戦争の遂行者が、ナチスではヒトラーだったが、この映画では魔法使いだった。

 この映画は、描写の細かさ、登場人物の魅力的なキャラクターなどで目を引く。「動く城」の不思議さ(なぜ、あのような形なのか。なぜ動いているのか。入り口のドアはいくつもの隠れ家のドアとなってること)もひとつ引きつけられる。魔法使いブームにのっている。宮崎作品には欠かせない空を飛ぶシーンの連続。美しい風景描写なども、絶賛される由縁なのだろう。

 にもかかわらず、物語としては弱い。「荒れ地の魔女」は恐れられているにもかかわらず、なぜかその恐怖感がない。権力の中心の魔女サリマンに呼び出されるが、なにひとつ警戒していない。しかも、宮殿に行き、実年齢に戻されて、魔力を奪われるが、去勢されたキャラクターと化してしまう。たしかに、ギャグとして微笑ましい。しかし、ある意味、この魔女の存在がこの映画を象徴しているかと思った。いわば去勢された映画であり、物語なきファンタジーの世界なのだろう。

 18歳のソフィーが荒れ地の魔女の呪いによって90歳の老女になるが、最初は戸惑いを見せつつも、その深刻さが描かれていない。たしかに、それまでのソフィーは「長女だから」という理由で、本当にやりたいのかどうかわからない家業の帽子屋で働いているが、老女になったとたん、自由を求め、外の世界に飛び出す。
 しかし、なぜか受け入れるのが自然すぎる。しかも、ソフィーと母親との再会シーンでは、なぜ母親がその老女をソフィーを思ったのかをソフィー自身が疑問に持っていない(なぜ母親がわかったのかは、その別れのシーンで描かれている)。荒れ地の魔女に魔法をかけられたのだから、荒れ地の魔女の魔力がなくなったら、魔力も消えるのではないか?と思ったのだが、そうでもなかった。結局、ハウルとの「愛」で解かれることになる。

 また、ハウルがなぜ戦争を嫌うのか、の根本的な動機もわからない。師匠への反発なのか。それともヒューマニズムなのか。あるいは、台詞であった「臆病」だからか。しかし、戦争を嫌い、止めるために、自らが兵器となり、戦争をしてはいる。のちの台詞で「守るべきものが見つかった」とあったが、それまでは「守るべきもの」がなかったのに、戦争を止めようとして、自らを兵器にしたのか。ハウルのキャラクターたるゆえんが映画ではほとんどわからない。

 最もこの映画の分からないところは最終段階だ。なぜ戦争が終わったのか?だ。老女となったソフィーをハウルの城に案内したカブに、ソフィ−がキスをすると、呪いが解けて、王子に戻る。このシーンの不思議は、「好きな人にキスをされると呪いが解かれる」(魔女の台詞)のだが、王子はソフィーが好きだったのか?と。しかも王子はそのことになんの違和感もなく、あっさりとしている。王子は宮殿に帰るのだが、ソフィーとハウルのラブシーンを含めその一連のシーンを知った魔法使いは、戦争をやめると決断する。なぜ、それが戦争をやめる理由となるのか。しかもその国の構造は変わっていない。結局は運命は魔法使いの手に握られているのだということが。

 一言で言えば、去勢された物語。
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 私はこれでもなぜか「ハウル」のことが気になり、いろいろ考えました。
 しかし、やっぱり謎が多すぎる。にもかかわらず、映画評などを観ると評価が高い。なんでかな?と思っていると、ある映画評にたどり着きました。
 それは、ハウルの城=ハウルの心、という捉え方をしていた。
 なるほど、そう考えれば、城そのものへの疑問は解けます。
 その捉え方を参考に、自分なりの解釈を考えました。
 まず、ハウルの城が動くのは、心の不安定さ、あるいは安定することへの拒絶を意味していたのか。
 そして、ハウルの城に入れるのは、火の妖精カルシファーが受け入れるかどうか。なぜ、カルシファーの許可は必要だったのかは、のちのシーン(ハウルの子ども時代に飛んだソフィーが、流れ星を飲み込んで、胸からカルシファーが出てくる。そして、それは心臓を伴っている。つまり、ハウルの心の象徴としてのカルシファーなんだろう)で明らかになる。
 城の番人のような子どもマルクルは、おそらく、現実の世界と接するための、ハウルの仮面の姿。ハウルが現実の世界と接するための分身的な存在なのだろう。シャイなハウルに比べて、マルクルはコミュニケーション能力が高い。子どものほうが世界と接するのによいと考えたのかもしれない。
 ソフィーが掃除婦として城に居着くが、汚いのはそれなりに理由があった。つまり、ハウルが美しくあるための呪文=ハウルの心の壁を維持するための呪文がいたるところに書いてあった。それをソフィーが掃除してしまう。ソフィーは勝手に入ってきて、勝手に掃除をする。ソフィーはハウルの心の壁を取り除く役割を担う。
 城を引っ越すシーンは、ハウルがソフィーのためにやったこと。ハウルがソフィに影響されて心が開いてきたのだろう。だからこそ、ハウルは知らないが、ソフィーの働いていた帽子屋になるのだろう。ただ、ソフィーが城を壊し、再構築するシーンは、それでも壁がありすぎるハウルを身軽にさせようとする試みだったのかもしれない。
 さらに、カルシファーの呪いが解け、自由になると、ハウルも自由になったように見えた。そして、カブが王子に戻る。そのシーンは、おそらくカブもハウルの分身。王子ということは、魔法使いサリマンの操り人形。反抗したから呪いをかけられていたのだろう。それが「キス」により目覚める。ソフィーはハウルが好きなのに、ソフィーのキスによってカブが王子に戻るのはそれにより説明がつく。
 このアニメの登場人物は、実は、ハウルの分身たちであり、それによって城が造られていた、ということになるのだろう。

 ここに視点を移せば、なかなかの作品かな?と思える。
 でも、ちょっと強引か?


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